2032年の都市を描写する (3) 都市計画を通じた社会改造

前回の記事では、ロバート・オーウェンやシャルル・フーリエの社会構想についてご紹介しました。彼ら計画図上では、建物が線のように連なって、一つの大きなブロックを構成するような形で都市がデザインされていました。

今回の記事では、そのさらに数十年後、19世紀中盤についてお話ししたいと思います。今まで紹介してきたのは社会思想的な、新しい社会を創造する一つのツールとしての都市計画でした。が、今回はその逆で、今ある都市をリフォームすることが計画の中心です。

 

以下は、スペイン・バルセロナの地図です。サグラダファミリアのすぐ近くのあたりです。

もしうまく表示されていれば、同じような高さのロの字型の建物が整然と並んでいる様子をご覧頂けるはずです。

このブロックのような建物が、バルセロナの中心部にずっと連なっています。

次に、バルセロナの地図をご覧いただきましょう。

碁盤の目に斜めの線を加えたような都市の造りになっていることがお分かりいただけますでしょうか。

この都市構造は、1850年代にイルデフォンソ・セルダ Ildefons Cerdà i Sunyer(1815-1876)によってデザインされ、実現しました。

フランス式庭園を広大な都市に当てはめたようなこの都市計画は、見通しや風通しをよくし、幾何学的な整然さを求めた結果の都市空間設計です。城塞を撤去し、スラムを解消して、スプロールしていく都市を建設する必要があった19世紀のヨーロッパに広がりました。

ロの字の中心は庭園となっており、都市の中心にも快適な空間を作り出そうという配慮がなされています。

 

セルダとほぼ同時期に実行されたのが、有名な「オスマンのパリ改造」です。セルダもバルセロナ整備計画の着手に際し、パリの都市改造を見学しに行っています。

ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン Georges-Eugène Haussmann(1809-1891)はフランスの政治家で、セーヌ県知事であった1953年から1870年までの間にナポレオン三世の命を受けてパリ市街の大改造を行いました。

それでは、パリの地図を見てみましょう。

旅行などでパリを訪れたことのある人にはおなじみ、凱旋門を中心としてシャンゼリゼ通りが右下に向かって伸びているところです。

こちらは碁盤の目ではありませんが、中心から放射状に直線の道路が伸びているところはバルセロナと共通しています。オスマンも通りの眺めを良くし、通りを広くして風通しを良くし、建物の採光を高め、街路樹を配しました。そうすることで、スラムを廃し、市民がバリケードを築いて政府に抵抗することができないようたのだと言われています。都市の治安と秩序の維持を、都市計画を通じて実現しようとしたんですね。

このような都市計画を、バロック様式の建築との共通点から、バロック都市計画とか、バロック式の都市計画という人もいます。

 

土木技術の向上や、都市のスプロールに従って広がってきた近代の都市計画。古代からアジアやローマにも都市が建設されてきましたが、近代の都市はその広さや人口の多さがケタ違いでした。また、近代の都市は貴族たちの政治的空間や商業者たちの市場のみならず、工場やそこに勤務する労働者や女性たちの居住地も包含していました。

アンリ・ルフェーブルが指摘するように、そこには都市の空間だけでなく、「都市の時間割」、都市の規律があったのです。また、ジョルジュ・ルフェーブルが論じていますが、労働者など街中に現れる「群衆」は、新たな政治的力としての存在感を都市の中で有していました。

そこで、このころの都市計画は、都市をデザインすることを通じて人々や政治や経済をデザインするということを目的としていました。前に紹介していた、社会をデザインすることを通じて都市の形や経済の分業や人々の関わりを規定するのとは、逆のアプローチなのです。

 

さて、「都市を描写する」第三回に至って、ようやく近代的な都市計画らしい計画が出てきました。

19世紀も終わりに近づいてくると、今度は都市の外にサブ都市( sub-urban)を構成し、農村や自然をも取り込んだ新たな都市の在り方を模索する動きが現れます。また、20世紀に入ると止まらない人口増加と人口集中を解決するために、鉄筋とコンクリートという新たな建築技術を活用した巨大な都市の構想が生まれてきます。

では、次回も乞うご期待!

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